いしかわの農業用水めぐり
長坂(ながさか)用水
取入口(小原地内)
山あいをぬって流れる用水
長坂用水は、犀川の支流内川上流の小原地内で取水しており、金沢市南西部の野田、長坂、泉野出、泉野、泉が丘など泉野台地一帯をかんがいしている。以前は富樫、弥生、有松といった町も含まれていたが、市街化に伴い農地は姿を消していった。
用水が造られたのは、寛文11年(1671)で、辰巳用水が完成してから39年後となる。そのきっかけとなったのは泉野台地の開拓で、高燥地で日当たりもよく耕地に適していた土地に、これといった水源がなかったため、前田綱紀の命で新たに用水を造ることとなったのである。また、寛文6年から9年における上辰巳、下辰巳、末地区の開田と土清水の開田及び村建てが成功したことも引き金となったと言われている。
開削工事は、当時押野村の十村を務めていた後藤太兵衛が中心となって進められ、寛文9年から約2年という短期間で完了した。大変早い完成を見たわけであるが、実際の工事は苦労するところが多く、「うちかわのわれ岩という所より大桑村の山の腰を掘り回し」とあることからも、山裾を巡らす作業と併せて岩盤をくりぬく隧道工事が多かったと思われる。全部で17ヵ所設けられている隧道は、アーチ型で高さ1.6m、幅1.1mから1.4mで川原から直角に5mほど堀り込み、そこから上流及び下流へと掘り進んだ形跡がある。川原からの掘り口は、いわゆる「窓」とよばれるもので、工事中は排土口として、また、完工後は水位点検窓としての役割を果たしてきたものである。そして、この窓部と窓部を結ぶ線は、ほとんど「くの字型」で、双方から斜めに掘り進み途中で出くわす形となっている。なお、この工事の背景には、想像以上の莫大な人員の動員があったものと考えられる。
こうして9.1kmの水路として完成した長坂用水により、新しく長坂新村(現在の長坂、長坂台)を建てるとともに、泉野村(出村、新村も含め)での米作が可能となった。一説には、この開削によって開かれた田から一千石近い米がとれるようになったという。
なお、昭和48年からは取入口を改修し、蓮花地内までの3.6kmを隧道にして金沢市の上水道の導水路として利用している。また、用水の歴史を知ってもらおうと、小学校4年生を対象に隧道見学を行っており、地域に根付いた用水となっている。
(平成13年3月)