石川県土地改良事業団体連合会 水土里ネットいしかわ

いしかわの農業用水めぐり

大野庄(おおのしょう)用水・鞍月(くらつき)用水


武家屋敷跡を流れる
大野庄用水


市街地を潤す鞍月用水

 金沢市街を流れる用水として、以前に辰巳用水をとり上げたが、同じ犀川水系に大野庄用水、そして鞍月用水がある。

 これは、辰巳用水と同様、犀川七ヶ用水と呼ばれるものに含まれており、どちらの用水も創設時期などの詳細は定かではない。

 大野庄用水は1573~1592年頃、今から約400年前に藩祖利家の家臣富永佐太郎が開削したと言われており、金沢で最も古い用水とされている。取入口は犀川右岸桜橋上流にあり、延長約10キロメートル、幅平均6メートルで、長町の中を貫流して長土塀を経て昭和町に至る。かつては城の防衛や防火、消雪、排水、木材の運搬など城下町の生活において重要な役割を担ってきており、この他にも農業用水として、金沢市西部の大徳、金石地区などおよそ1400石の農地に恵みを与えていた。

 この豊かな恵みをもたらす用水にまつわる伝説に、養智院の一説がある。

 正徳年間(1711~1716)の頃、城下町の整備で町の寺々が寺町などの町端に次々と移されていた時、その時の藩主の夢枕に養智院の地蔵尊が現れて「大野庄用水の守護としてここに残せば、今後長く用水を守るであろう」という言葉を残した。その後、この上流で川に落ちた子供もここで必ず助かると言われた。

 一方、鞍月用水は、1644~1648年頃、油屋与助という人物が手掛けたとされているが、実際は、正保年間に行われた一部改修の時に携わっただけだという説もある。

 こちらは、大野庄用水の2キロメートル上流の城南2丁目右岸で取水し、全長約15キロメートル、川幅は1.5メートルから6.4メートルと箇所によって異なっている。大野庄用水と同様に、町中の生活用水、防火用水と併せて金沢西北郊外13カ村、8千石を潤す大用水でもあった。

 この鞍月用水がかんがいしている地域は、犀川の氾濫原で、湿地帯であった。それにまつわる伝承として、源平の決戦の時の様子が語り継がれている。時は寿永2年(1183)、鞍月の地を戦場として源平の決戦が繰り広げられていた時、丁度梅雨の時期であったため、皆膝までぬかるみにはまってしまうといった有様であった。そこで兵士は、民家から板戸を持ち出して戸下駄を作って脱出したというものである。

 こうして金沢の街を潤してきた二つの用水は、現在も武家屋敷跡を流れ、所々では屋敷内の池にもその水が取り入れられているのが見受けられる。

 今後も、町並みだけではなく市民の心に安らぎと潤いを与え続けてほしいものである。

(平成11年11月)