石川県土地改良事業団体連合会 水土里ネットいしかわ

いしかわの農業用水めぐり

神子原(みこはら)ダム


神子原ダム


一面に広がる受益地
(千代地区)

 羽咋市の中心部から東へ8㎞あまり、標高90mほどのところに神子原ダムがある。ダムの規模は、総貯水量27万t、提高15.7m、提長63mで、その恵みを受けているのは、白石、宇土野、中川、飯山、尾長、志々見、堀替新、菱分、千代、垣内田、四、上江、千田、円井、深江、吉崎の16の集落である。

 ダム工事が手掛けられたのは、昭和9年で同17年に完成した。およそ8年の歳月をかけたわけであるが、その背景には、折からの経済不況や日支事変に伴う農村の疲弊があったことが考えられる。こうした戦時体制にもめげず、地区民が一致団結して築堤に取り組みその完成をみたのである。また、神子原ダムは飯山川用水と関わりが深いことから、同用水の歴史からみていくこととする。

 古来より、飯山川用水にたよる村々の水争いは絶えなかった。特にかんばつの時は、用水の末端地域の水不足がひどく、羽咋市史によると、文政4年(1821)、同5年、文久元年(1861)に下流の村々が上流の白瀬村を訴える文書を十村役に提出している。これは、白瀬村が飯山川の水をほとんど独占し、飯山川下流域の用水が十分な水量を確保できなかったためである。

 こうしたことから、邑知潟南東部の飯山川用水にたよる村にとって安定して水を得られる水源地は渇望の的であった。1770年代前半までには、志雄町の杉野屋堤、羽咋市宇土野の藪野堤が築造されているが、なお用水不足の悩みは解決することがなかった。

 その後、寛政11年(1799)に中川村等5村が菅池村領内で新堤の願いを、また、慶安2年(1866)に神子原村地内「瀧ノ谷」での新堤を設ける旨の請願をしたが、堤は豪雨時に決壊を起こす危険性があったことから、見送られる結果に終わっていた。とりわけ堤に近い下流域の村々の不安が大きく、碁石ヶ峰の山麓一帯は地すべりの頻発地域であるという心配もつきまとっていた。このように、新堤づくりによる利害関係から意見の一致を図る事は難しかった。慶応3年(1867)に川下の14ヵ村が申し出た、神子原地内「なめとこ谷」の新堤造りについては、条件付きで提出されている。

 神子原堤の計画は、昭和10年(1935)認可を受けたが、実施に当り再調査の結果、根本的に計画変更が必要と認められ、昭和12年に変更した計画書の認可を得、着手することとなった。ダムの創設により542haの農地が受益することになった。ダムの補修工事については、昭和22年を皮切りに、29年、34~35年及び37年に行われている。

 なお、受益地域では、昭和47年度から平成2年度にかけて県営ほ場整備事業が実施されている。

(平成13年6月)