いしかわの農業用水めぐり
漆沢(うるしざわ)ため池
ため池全景
眉文山丘陵に広がる
受益地(西三階町)
北村平内安仲の治水功績碑
七尾市の西三階町にある「漆沢の池」は、眉文山系丘陵地の東北端に沿って流れ、七尾湾に注ぐ二宮川の左岸、西三階町、町屋町、温井町の水田48haを潤している。この池が造られる前の水源は、二宮川の流域に沿う低地では流水を要所ごとに堰きとめて比較的安定した水量が確保できていたが、それ以外の地域はほとんどが山丘からの湧水を直接使っていたため、小さな溜池を造って調整し、使用しなければならなかった。そのため、それらの地域では干田地の水不足に常に直面していた上に、延宝7年(1679)には前田藩から「村御印」というお触れ書きが出され、草高776石、新田高8石、その免4ツ3歩(4割3分)を物成(年貢米)として納めることが義務付けられたため、一層苦しい状況に陥ることになった。
そこで享保10年(1725)、十村役の北村平内安仲が、当時の三階村で開田可能な土地が相当あったことに目をつけ、新たな水源確保に向けて村の西方にせまる眉丈山系の支丘、後藤山(現在は存在しない)の「うるし沢」の谷を堰きとめて当時「うるし沢の池」と呼ばれていた用水池を築く決意をしたのである。 ため池工事は、所司山の谷間を仕切って作られ、その規模は堤高6.1m、堤長240m、堤長幅5.0m、貯水能力150万kとなっている。その特徴として、堤防の前面に水漏れとそれによる決壊を防止するために「はがね土」と呼ばれる良質粘土の止水壁が用いられており、当時において高度な土木技術を要したとされている。なお、現在もこの工法が取られている。
こうして、延べ1万人の人夫により、3ヵ年という年月を費やして完成された漆沢の池は、新田開発に大いに貢献するとともに、後の大正15年の大かんばつ時にも役立つこととなった。その陰には平内の一方ならぬ努力があったとされ、その功績を称えて同年の10月に「治水功績碑」が藤原比古神社に建立された。また、構築後160余年を経た明治25年に、古い伏樋の取換工事中に崩壊事故が発生し、6名が犠牲になったという出来事もあり、その慰霊碑が堤防上に建てられている。
このように様々な歴史が刻まれている漆沢の池は、現在も農業用水としての役割を果たしているが新たな動きとして、池周辺を憩いの場として整備しようという声が地域住民の間から挙がっている。水辺には珍しい水生植物サワギキョウも生息していることもあり、今後どのように計画が進められていくのか期待が高まるところである。
(平成13年2月)