いしかわの農業用水めぐり
河原市(かわらいち)用水
用水の取入口
(金沢市 不動寺地内)
河原市用水
河原市用水は、金沢市の東部を流れる森下川の右岸、旧三谷村河原市(現不動寺町)で取水し、山麓に沿って北東に導水して津幡川に注いでいる延長10.2kmの用水である。
用水の開削時期については、詳しい資料が残されていないが、用水の守り神である波自加弥(はじかみ)神社の社記に貞亨2年(1685)とあることがわかっている。この「波自加弥」という名前は、歯でかんで辛いもの、すなわち生姜(しょうが)、山椒(さんしょう)、山葵(わさび)などの古語である「薑(はじかみ)」が語源となっている。また境内には、朝鮮半島より医薬としての生姜を日本に初めて伝えた朝臣(たけのうちのすくねのみこと)を祀る摂社(じんべいどう)があり、生姜の古名を名乗る本社との関係がうかがえる。
当時、森下川より津幡川にかけての地域には、これといった用水がなくわずかな谷川の水でかんがいしていたため、ちょっとした日照りでも水が不足するといった状態であった。そこで、当時河北、羽咋両郡において用水やため池工事に優れた才能を発揮していた河北郡浅田村の十村役、中橋久左衛門の力を借りて用水開削にのりだすことになった。しかし、いざ取り組もうとした時、水路の線引きに悩むことになった。そこで、波自加弥神社に祈願したところ、ある雪の朝、白狐の足跡が神社から山麓を迂回して隣の村へと残されていた。久左衛門は、その跡に従って水路を掘り進めよというお告げだと解釈し、時の開削奉行の許しを得て、苦心の末用水を掘り上げた。また、河原市用水は、別名浅田用水と呼ばれており、これは、開削した久左衛門が浅田村の住人であったためそう呼ばれていたのではないかと言われている。
用水工事には、30年の歳月を費やして完成したのだが、その後、改修工事が寛政4年(1792)に実施され、文化3年(1806)に完成した。
用水の維持管理については、かんがい地域の地形の関係で、落水を他の地区に利用できなかったり、水路が高い部分を通っているため漏水するなどの苦労があった。その上、雨期ともなれば背後の山林から排水が用水に流入するため堤防の決壊や土砂の流入が激しく、この排土にも多額の費用がかかった。大正、昭和にかけては玉石コンクリート護岸工が施工されるようになり、昭和2年(1927)に岩出地内より観法寺地内に至る間を工事し、これにより堤防の漏水防止と補強を図ったのである。
昭和34年度には、水路を全面改修するという目的で県営河原市用水改良事業に着手した。事業実施中の同39年に大水害に見舞われたため、未改修部分を県営災害復旧事業として工事を進め、昭和41年完成に至った。この事業によって地域住民の長年にわたる苦労は終止符を打つことになった。また現在、水路の老朽化と排水量の増大に対処するための改修を、平成8年度から県営かんがい排水事業として実施している。
(平成12年10月)