石川県土地改良事業団体連合会 水土里ネットいしかわ

いしかわの農業用水めぐり

寺津(てらづ)用水


用水取水口
(寺津逆調整池ダム)


用水景観整備事業の遊歩道
わきを流れる用水(末地内)

 犀川水系の中でも最上流の用水である寺津用水は、犀川ダムの3km下流に位置する寺津逆調整池ダムから取水している。

 同用水の開削は、同じ犀川水系で下流に位置する辰巳用水(1632年建設)の影響を受けていたと思われ、上辰巳・下辰巳・末の上流地域や、下流部の小立野台地奥地部などで水田化を目指したいという要求が起こったのが始まりであった。天保3年(1646年)頃、田中覚兵衛という浪人が藩に言上したことから話が進み、それから約20年後の寛文4年(1664年)に工事が進められ、翌年完成した。この開削により、107haの耕地を生み出すこととなった。

 寺津用水は、全水路の役6割が隧道で、そのほとんどが取水口付近に集中している。この辺りは、岩盤となっていたので苦労が多く、開削方法として穴繰り(隧道工事)が施されたことから辰巳用水の開削技術を積極的に取り入れていたと思われる。

 時代はめぐり、明治に入ると文明開化の波が押し寄せ、産業や日常生活の中で多量の電力が必要となった。そこで、同28年に金沢市が寺津用水を利用した発電所を設ける一大事業の計画を打ち出した。これに対し、犀川水系七ヶ用水(寺津・辰巳・鞍月・泉・大野庄・中村・高畠)の各用水普通水利組合管理者が猛反対したが、翌29年に認可が下り、事業が進められていった。

 しかし、その後インフレにより実現が困難となり、市は同時期に同じく新事業に力を入れていた実業家森下八衛門(森八の主人)に全ての権限を託すことにした。

 森下氏は、再度組合側に用水利用権の請願を行い、その後明治30年に金沢電気事業株式会社を設立、寺津用水組合と交渉の結果、同32年に契約を締結することができた。こうして翌年の明治33年に辰巳発電所が完成し、この電力により初めて金沢市内2000軒の電灯に明かりが灯ったのである。その後、大正10年に市が金沢電気瓦斯株式会社(金沢電気事業株式会社の後身)を買収し、電気局を創設したことから、水利権は再び金沢市に帰属することとなった。

 こうして、農業用水のみならず、発電源や飲料水として市民の生活を潤している寺津用水は、今日も静かに山裾を流れている。

(平成12年6月)