石川県土地改良事業団体連合会 水土里ネットいしかわ

いしかわの農業用水めぐり

矢田野(やたの)用水


三方張に改修された矢田野用水
(加賀市栄谷町地内)


動橋川に設置された頭首工(加賀市横北町地内)

 矢田野用水は、加賀市横北地内の動橋川より取水し、法皇山の下をトンネルで抜け、宇谷工業団地の下を迂回する様に流れている。その後左に曲がって宇谷川を水路橋(28.8m)で渡り、栄谷の町中を通り那谷川の下をサイフォンで潜ってからすぐ工事中の難所として辛酸をなめた「小手ヶ谷」を通過して、分校・箱宮境の新トンネル(89m)を抜けるとあとは山裾を縫って二ツ梨、矢田野へたどり着く。

 同用水は、周辺農民の願いによって出来たものではなく、原野を水田にして藩の税収を揚げる目的で大聖寺藩が計画施行したものである。 創設にあたって一切の指揮をとったのが家老の神谷内膳で、延宝7年(1673)11月、自ら矢田野に引越し、翌8年2月下旬に工事に着手した。そして同年8月23日(現在の9月23日)には通水するに至り、総延長11.1kmの難工事をたった6ヵ月で完成させた。

 水路の基本は山裾を削って反対側に堤防を築く工法で、これは、渇水時に少しでも山からの垂れ水を集めようとの考えからとられたものである。しかし、同用水は平均勾配が1/2000と非常にゆるいため大雨に弱く、その上洩水もひどかったため、当初予想していた矢田野までの水量が十分に確保できず、200町歩計画していたうちの33町歩しか開田できなかった。

 このように、苦労して完成した用水であったが、またもや延宝9年6月の田植え後間もなく、掘貫きであった小手ヶ谷が陥没してしまった。そこで、藩の一大事と総動員をかけて一服なしの昼夜兼行で改修作業にあたった。この時、多くの犠牲者が出たと言われており、それにまつわる伝説も残されている。昭和初期ごろまでの話だが、毎年210日前後の蒸し暑い日没の頃、どこからともなく何億という小さい白い蝶がやってきて飛び交い、夜明けになると力尽きて川面を埋めつくしたというのである。これは、亡くなった人の霊ではないかと言われている。

 その後、明治29年8月2日からの集中豪雨と昭和26年6月28日の福井大地震との2回にわたって、全線が大きな被害を受けている。

 こうして苦難の歴史を経て維持されてきた同用水も、老朽化と洩水が甚だしく、ようやく昭和50年団体営事業として大改修の口火を切ったのである。下流1,372mが昭和54年までの5年間で完成し、翌55年からはいよいよ県営事業にかかった。

 平成元年までの10年間で、総事業費7億2,140万円を投じて総延長6,045mを完成した。

 現在、水門から滔々と流れ出る清流は、先人の流した血と汗のたまものと言えよう。

(平成12年2月)