いしかわの農業用水めぐり
宮竹(みやたけ)用水
上郷農業用水発電所
灯台笹地内(辰口町)で
発見された幻の取水口
宮竹用水は白山を源とする手取川から梯川にわたる能美平野を潤す県下第2の用水である。手取川の右岸から逆サイフォンの原理によって左岸へと分水されており、右岸をかんがいする手取川七ヶ用水とは切り離せない関係にある。
取入口が設置されたのは、正徳~享保年間(1711~1716)頃と言われており、寛政年間(1789~1800)には能美郡辰口町灯台笹で取り入れられていた。この灯台笹の町道下から、平成3年、これまで地図上でしか確認されてなかった「幻の水路」と思われる旧宮竹用水への取水口が3本見つかった。これは、今から約200年前の寛政期のものと見られており、高さ、幅それぞれ1.3メートルのアーチ型の取入口の構造は、上幅0.34メートル、下幅0.26メートル、高さ0.3メートルの擬灰岩を台形に整えた切石を、二段に積み重ねたものとなっている。
本用水は、辰口町史によると、二ヶ用水と旧宮竹用水という2つの用水から成っていた。前者は用山一番堤に新口で、後者は灯台笹に設けた三カ所の取入口から取水していたが、明治29年に手取川の洪水で取入口が流失したのを機に、取水口を一カ所に合口することとし、明治32年(1899)に従来の場所から1080メートル上流へ移動した。この時併せて、岩本地内の天狗壁と言われる岩岸に取水口を設け、隧道370メートル、掘割水路720メートルを従来の水路へ接続し、水利体勢は有利となった。しかし、その後明治36年(1903)に七ヶ用水が7カ所の取入口を統一し、更に上流に移動したことで宮竹用水は最も下流で取水することになり、その立場が逆転してしまった。取水量もおよそ7対1の割合で確定されたが、この割合が受益面積に対して十分でなかったため、分水をめぐっての争いが絶えることがなかった。
果てしなく続くと思われた水争いに終止符を打ったのは、昭和42年に完成した大日川ダムであった。昭和25年から約17年の歳月をかけて完成したのだが、この間、渇水期でも安定的な水源の確保が約束されたことから、従来の分水比率7対1の見直しが図られ、3対1と大幅に変更されるなど、宮竹用水の配分が多くなる動きも見られた。
現在に至っては、平成7年に県内初の農業用水を利用した小水力発電「上郷農業用水発電所」が設けられるなど、安定した水源が確保されている。
こうして長きに渡って繰り広げられてきた水争いの歴史。現在に至るまでの先人の苦労が、そこここに刻み込まれている。
(平成11年12月)